株式会社オスガーマシン

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社長コラムvol.1 ブログ投稿を始めます。まずは初代社長・大菅の話から

ホームページを訪問いただき、ありがとうございます。株式会社オスガーマシン社長の菊田勇司です。オスガーマシンでは今年度から、私たちのことをもっとリアルに知っていただこうと、ブログ記事でお伝えしていくことにしました。私・菊田のちょっとしたコラムや、社員のインタビュー記事などを投稿していきますので、読んでいただければ嬉しいです。

では早速。第1回ということで、僭越ながら私の自己紹介から行ってみましょう。66歳の私にも、若かりし頃がありました。20代の私の心にぐいっと入ってきたのが、オスガーマシン初代社長の、大菅昭二でした。

新卒で商社へ就職、オスガーマシンとの出会い

オスガーマシンという製造業の社長をやっていると聞くと、製造一筋の道を歩いてきたように見えるでしょうか。実は私は文系人間です。大学時代は経営学部で学び、機械系の商社に就職しました。

大学時代のバイトで、いろんな電気店でステレオ販売をしていたんですが、それが面白かったんですよね。そのくらいの小さなきっかけしか思い当たりませんが、商材を介して人と人とをつなぐような仕事がしたかったんでしょう。それで「商社」を選びました。そこが「機械系」だったのは、たまたまに過ぎませんでした。

就職先の商社がもつクライアントの1社として、オスガーマシンがありました。上司の紹介で担当になり、オスガーマシンの商売相手を探したり、求められた機器を製造する企業とつないだりしました。

1982年の創業後さほど経っていなかった当時のオスガ-マシンは、まだ従業員も一桁の小さな会社。私が話す相手は自然と社長の大菅になるわけです。55歳でオスガーマシンを創業し、時代の波にのって自分の手で事業拡大に励む大菅は、かなり破天荒な人間でした。

大菅に惹かれ、20代中盤で転職

私と同年代の方は分かると思いますが、昭和のあの頃といえばまだ、組織の中では上司が絶対的に偉かった時代。「俺の言う通りに動け」と平気で言う人間がそこら中にいました。私が就職した商社は500人規模の上場企業で、組織の中で自分の意見もなかなか言いづらい毎日。おかしいと思ったことが胸の中で積もりながら悶々としていた自分に、矢面に立って偉そうな人間にも怖気づかず、ひとりで開拓していく大菅の姿は新鮮でした。

「このままここでずっと過ごしてあの上司のようになるのか。大菅社長のような人のそばで働いたら、人生はまた違ったものになるのでは」、20代も中盤に差し掛かった私はそんな風に思うようになり、大菅から誘われたのをきっかけに、オスガーマシンに転職しました。仕事内容は営業。今まで大菅がほぼ1人でやっていたようで、決まったルールも仕組みもありません。商社時代の経験を生かして、手探りでがむしゃらな、私のオスガーマシン営業マン時代が始まりました。

仏の顔と鬼の顔

大菅が持っていた営業先を徐々に受け継ぎ、ひとりで行くこともありましたが、大菅と一緒に全国いろんなところに行きました。彼は仏であり、時に鬼でした。お客さんからの支払いが滞っても、「あの人にも家族があるんだから」とニコニコしていたり、従業員には常に面倒見がよく頼れる社長であったり。あんなに人を想って動ける人を、私は知りません。一方で、おかしなことはおかしいと、決して曲げない人でした。相手が誰であっても、どんな脅しを受けようとも。それこそ鬼の形相で一歩も引かず、対峙する。そういうことができる人でした。

いつだったか、大菅は特攻隊員の生き残りなんだと聞いたことがあります。特攻隊に志願し、日夜訓練を受けながら出撃を待っていたものの、その前に終戦が来たそうです。「一度命を捨てる覚悟をしたから、あんな風に肝が据わっているんだろうか」と思ったものです。普段の温和な顔から想像できない、あの気合の入った瞬間の顔と声は、今も思い出します。

バブル景気の追い風で成長

さて、オスガーマシンの事業はと言えば、大菅が社長を務めた10年間が一番伸びた時期と言えるかもしれません。日本がバブル景気の真っ只中だったこともあり、会社としても社員がどんどん増え、一時期は30人近くにまでなりました。

ヒット商品も出て、はじめは愛知県周辺だけで商売をしていたのが全国から呼ばれるようになりました。初めて群馬県から問い合わせが来たときは、驚きましたね。行ってみると、群馬県には小さなパイプ工場がたくさんあることが分かり、そこでまた営業をして回ったりもしました。

この頃は日本全体に活気があり、全国各地に行っては営業をして、受注ができて、と、私にとっても楽しい時代でした。やがてバブルが崩壊すると日本の製造業も元気がなくなり、オスガーマシンの事業も少しずつ下降線をたどるようになります。大菅は創業10年、病気で亡くなるまで精一杯働き、私たちに次を託していきました。

「社長像」を考えるときに浮かぶ、大菅との日々

その後社長となる2023年までずっと、私はオスガーマシンの営業面を担ってきました。時代のあおりを受けて厳しいときもありましたが、大菅の残したこの会社を絶対につぶさないぞと、できるだけのことはやってきました。オスガーマシンは途中でM&Aにより違う会社の傘下になり、現在は名古屋にある大三鋼機のM&Aを受けて、グループ会社として事業を行っています。

私が大三鋼機の相川社長に社長指名されてから3年。社長となり、どうあるべきかを考えるときに思い浮かべるのはやはり、若かりし私の心に刺さった大菅の存在です。彼のように豪気にはなかなかなれないとは思いながらも、彼の近くで働いたからこそ感じたことや得たものを大切にしたいと思っています。

私も来年でオスガーマシン在籍40年になります。創業者・大菅と一緒に働いた人間も、私を含めて3人だけになりました。時代の要請に応える柔軟性を持ちながらも、嘘がつけない人間だった大菅の真っ正直な経営を忘れないで、これからも頑張っていきたいと思います。

……そうそう、最後によく聞かれるので補足しておきますね。弊社「オスガーマシン」の社名の由来は、創業者大菅の「オオスガ」から来ています。「オオスガマシン」でなくて「オスガーマシン」にしたところに、大菅の遊び心とセンスを感じますね。

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